遠賀川ってどんな川

遠賀川ってこんな川

地理的環境 

遠賀川は、福岡県の北部の 福知山・ 英彦山・ 三郡山 などの 900~ 1200m の 山々に 囲まれ筑豊平野を 南から 北へ 流れています。  

嘉麻市嘉穂、馬見山( 977.8 m) の 谷間に 源流があり72の支流を合わせて、河口の芦屋まで流れ 、全長は 61 .7kmあり、 筑後川につぐ 福岡県 第二の 大河 です  

遠賀川 流域は 筑前(旧遠賀・鞍手・嘉麻・穂波郡)と豊前(旧田川郡)の二国にまたがっていたことから「筑豊」と呼ばれています。

特に明治以降に、 日本の 近代化の 源動力になった 石炭が 、この5郡から たくさん掘られたので、筑前の「筑」と豊前の「豊」を 合わせて「筑豊」と ゆう呼び方が 広く 用いられるようになりました 。

 上流の 田川盆地には 遠賀川水系の 彦山川・中元寺川があり 、そして 東の 周防灘 に 注ぐ 今川があります。 飯塚盆地では 馬見山を 水源とする 遠賀川( 嘉麻川)と 三郡山 を源流とする 穂波川の 流域が広がり、二つの川は 飯塚市で 合流し北 流れて 直方平野に至ります  

河口の 東側には 響灘に臨んで 若松半島があり、北に広がる 響灘は 関門海峡を 西出た海域で、 東は 山口県の 海岸、 西は 玄界灘に接しています  

この海域は 古くから 瀬戸内海・ 関門、 北九州市と 中国大陸 ・朝鮮半島を 結ぶ航路で 豊かな 漁場です。

名前の由来

遠賀川の 由来の前に、なぜ「遠(オンガ)」と呼ばれるようになったのでしょうか 。

「古事記」 の時代には「岡」他と呼ばれ、 これを「遠賀」 と改め、「オンガ」 と呼ばれるようになったのでしょうか。このように、遠賀川も 時代や地域により呼ばれ方が変わってきています。

遠賀川下流の 遠賀郡では、御牧郡と呼ばれていた時代に「御牧川」と呼ばれていたようですが、今から300年ほど前に造られた風土史「筑前国読風土記」の中には、すでに「遠賀川」の名前が記載されており、江戸時代から「遠賀川」と呼ばれていたようです。

また、 現在の遠賀川は、源流から下流までをすべて遠賀川と呼びますが、遠賀川上流の嘉飯山地区の 明治20年の 地図には、「嘉麻川」と表示されています し、古い記録には「直方川」と呼ばれていたという記録もあります。

昔の人々の暮らし

約1万2千年前から 地球が やっと暖かくなり、 氷河が溶けて その水で海面が 高くなり、 日本列島は大陸から離れて 今日の姿になりました。

遠賀平野では、旧石器時代の人々は シカや イノシシや 鳥などの 動物を 弓矢で狩り、海辺では貝を採ったり、魚を釣ったりし、食べた殻や残りの殻や骨を捨てた貝塚が作られました。

貝塚は縄文人のゴミ捨て場ですが 、それを発掘調査することによって、 当時の自然環境や縄文人の食生活を知ることができます。

最も奥の貝塚は、現在の遠賀川の河口から約15㎞上流の直方市下新入にある「天神橋貝塚」です。

したがって、当時は直方まで 海が入り 込んで おり、中間市、鞍手町、水巻町、遠賀町、岡垣町、芦屋町に広がる 水田の部分は、 当時海だったことになります。

洞海湾と 古遠賀湾は 海でつながっており、 北九州市 若松区は島になっていました。

 

稲作文化

今から2400年~2500年ほど前 に、 中国大陸から朝鮮半島を 経て、イネやムギ、アワなどの穀物を作る 新しい文化が 伝わりました。

北部九州の初期稲作の遺跡として 唐津市の菜畑遺跡、 糸島市二又町の曲田遺跡、福岡市板付遺跡、粕屋町の江辻遺跡があります。

北部九州 へいち早く 上陸した水田稲作は、遠賀川流域を経て、瀬戸内海沿岸を東へ、近畿地方まで進み、 また、対馬海流に 乗り、山陰地方から日本海沿岸を 北上し、本州の 北端まで 達しています。

自然と歴史・文化保全の取り組み 

遠賀川は古くから稲作文化が栄え、平安時代には遠賀川を川船(平駄・ひらた)で下って、芦屋津で 大船に積み替えて、奈良の東大寺へ、納めていました。

また、日本の近代化を支えた石炭遺産など、流域の文化資産がたくさんあります。

 例えば、田川市の立坑櫓や2本煙突、飯塚市の炭鉱王伊藤伝衛門、また、下流域では、江戸時代に洪水対策として、あふれる水を洞海湾に流して、 被害を防ぐ人工川「 堀川 」など、昔の人の生活の知恵が今も生かされています。

このように先人たちが残した文化遺産を後世に伝え、遠賀川流域の豊かな自然を保全するため、流域では、たくさんの皆さんが 日々活動を展開しています。

 

石炭

筑豊で石炭が発見されたのは、記録によると今から540年ほど前の1478年( 文明10年)遠賀郡埴生村で 「燃える石」を発見したのが筑豊炭田の始まりと言われています。

石炭を発見した当初は、農民の薪代用として、家庭用燃料にされてました。 また、「かがり火」として、城の灯りや、漁業等に利用されていました。

1764年~1771年( 明和年間) 若松の庄屋が、石炭を製塩に利用する方法を発見しました 。

明治時代に入り、西洋から 動力としての 蒸気機関車が 導入されると、陸は汽車、海には汽船が走り、急速に石炭の利用が高まりました。

1897年(明治30年)には八幡製鐵所の建設が決まり、石炭を蒸し焼きにして、できたコークスが鉄をつくるのに活躍しました。

また石炭を燃料として、火力発電で電気が作られ、ガス・セメントを作る熱源、工場のボイラーなど 燃料に、盛んに使われて、日本のエネルギー源として、近代化に役立ちました 。

石炭の選り分けは、水で洗って、選炭していましたので、汚れた水が遠賀川に流れ、遠賀川の清流は「ぜんざい」のように、黒く濁っていました。

1975年(昭和50年)以降は、 炭鉱がなくなって、川の水がきれいになっていますが、都市化の進展や生活様式の変化により、水質の悪化が見られるようになりました。

このため 、現在では各自治体による下水道整備とともに、河川浄化施設の整備運用が、住民団体等の水質改善に向けた活動が、積極的に行われています。

遠賀川は鮭が遡上する南限の川と言われています。

 遠賀川では、サケを神の使いと信じ、サケが登ってくれば豊作になると信じられていました。

嘉麻市大隈地区に、約1200年前の歴史を持つ、日本唯一の「鮭神社」では、毎年、12月13日に献鮭祭がが行なわれています。

遠賀川流域で石炭が掘られていた時代には、川が黒く濁り、鮭の遡上は確認できませんでしたが、その後、多くの炭鉱が閉山となり、川がきれいになった、昭和53年(1978年 )遠賀川の下流、水巻町の伊佐で、体長50cmのサケが発見されました。

これを機会に「遠賀川に鮭を呼び戻す会」(現在は遠賀川源流先の会)が結成され、ほぼ毎年、サケの遡上が確認されています 。

毎年、遠賀川源流サケの会は、12月に新潟市村上市三面川漁業組合から、受精卵を頂き、馬見山のふもとのふ化場で、ふ化・飼育を行っています。

又、近隣の小学校でも、河川環境教育の一環として、ふ化・育成を行っています。

翌年の3月、流域の小学校や幼稚園、河川愛護団体など、遠賀川流域の約20カ所で、7㎝ほど大きくなった稚魚を放流しています。

また、遠賀町 青少年育成町民会議でも、サケの孵化・育成事業として取り組んでおり、河川愛護団体や児童・生徒と共にサケの受精卵のふ化・育成をしてもらい、大きくなった稚魚を西川に放流する活動をしています 

環境への取り組み

豊かな自然環境に恵まれた遠賀川では、

自然な環境保全を保全・復元し 、生物の多様性の復活を図るため、多自然魚道の整備や、河川と農業用水路を結んで、生物の横断的な移動経路や、育成環境を改善するための、環境整備などが実施されています  

 

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