もっと知りたい遠賀川

原始・古代編 5 古墳時代の遠賀川

(1)遠賀川流域に進出してきたヤマトの勢力

4世紀に、東北地方南部から九州に至るまで広大な地域に、前方後円墳を外形とし、長さ数メートルにも及ぶ割竹型木棺の埋葬施設、三角縁神獣鏡を主体に豊富な副葬品を持つ古墳が出現します。

 この墓の形は3世紀後半頃に大和盆地東南部の三輪山麓で新しく造られたと推定されています。

 今まで各地で異なっていた墓の形が急に同じ形になったのは、同じ形の祖先の祭りをおこなうという取り決めが、ヤマトの王と各地の王との間にできあがった結果だと説明することができます。 つまり、ヤマトの王と各地の王との間で同じ祖先から分かれた同じ種族という関係ができたと考えられます。その証拠として配布されたのが三角縁神獣鏡だともいわれています。

 これは古墳という墓つくりを通じて、ヤマトの王を中心に全国的規模の政治的連携のネットワークができあがったことを意味しています。すなわち、ヤマトの王を頂点に全国的規模で結ばれた王の連合が成立したということでしょう。こうした政治的な背景によって出現したのが古墳といえます。

 遠賀川の上流域では、飯塚市辻古墳は4世紀前半頃に築造された径約30mの円墳です。埋葬施設は長さ5.3mの割竹形木棺で、内部から盤龍鏡、鉄剣、鉄刀、鉄しが発見されました。

 これに続いて4世紀中頃に築造された穂波町忠隈古墳は径約40m、高さ5mの円墳です。長さ4.4m、幅0.8mの小口積みの竪穴式石室があり、埋葬施設は割竹形木棺と考えられています。三角縁三神三獣鏡、獣形鏡、玉類、四葉座金具が発見され、墳丘の上からは嘉穂盆地全体を眺めることができます。

 これに後続する稲築町沖出古墳は4世紀後半頃に築造された全長約70mの前方後円墳です。後円部に長さ3.7m、幅1.4mの竪穴式石室があり、埋葬施設は割竹形石棺で、内部から鍬形石、石釧、車輪石が発見されました。この3種類の石製腕飾りが組合わせで見つかったのは九州で唯一です。

 なお、やや規模の小さな墓として、上流域では嘉穂地方に飯塚市赤坂1号墳、嘉穂町西ヶサコ古墳、田川地方に方城迫古墳などがあり、割竹形木棺を納めた粘土槨を埋葬施設とした円墳です。穂波町日上古墳は埋葬施設に敷石がある特異な構造です。

 一方、遠賀川下流域には遠賀町津丸山古墳があり、埋葬施設は不明ですが、全長約57mの前方後円墳で、今のところ、4世紀前半頃の築造と推定され、遠賀川流域では最古級の前方後円墳と考えられます。これに続く、同町豊前坊3号墳は全長約32mの前方後円墳で埋葬施設は箱式石棺で、4世紀中頃の構造と推定されます。これに隣接する豊前坊1号墳は全長約74mの下流域最大の前方後円墳ですが、埋葬施設は不明です。4世紀前半頃の築造と推定されます。

 『日本書紀』には、仲哀天皇の九州遠征の時、崗県主(遠賀郡にいた豪族)の祖熊鰐は周防(山口県南部)で船を乗り出し、海上に出て船の舳に賢木をたて、その枝に鏡・玉・剣をかかげて降伏の意を表して、天皇を出迎えたと記されています。これは地方にいる族長の統治シンボルである宝器を差し出す儀礼で、地方の族長を天皇が征服していく物語です。遠賀川下流域の上記の前方後円墳はヤマト王権に対して早く服属した崗県主一族の墓地かもしれません。

 遠賀川流域では4世紀のはじめには、遠賀川の河口付近と上流の嘉穂盆地に豪族の系譜がたどれ、ヤマト王権の進出が認められます。

(2) 朝鮮半島と独自に交易を行う有力豪族

5世紀には古墳が大規模化するとともに、大量の武器類と金メッキをした装身具や武具・馬具も副葬するようになります。

 つまり、4世紀の呪術的、宝器的な品を副葬する司祭者的豪族から、5世紀になると金色に輝く甲冑を身にまとう、武人的な豪族へと、豪族の性格が変化します。5世紀の古墳時代中期は「倭の五王の時代」ともいわれています。

 江上波夫氏の騎馬民族説は、こうした4世紀から5世紀への古墳文化の変化を北方騎馬民族による征服王朝樹立という視点から説明したものです。

 5世紀前半代に犬鳴川流域では全長約63mの前方後円墳である若宮町高野剣塚古墳と、これに継続して全長約40mの帆立貝式古墳である高野1号古墳や大形円墳の竹原八幡塚古墳が連続して築造されます。

 一方、上流域の桂川地方には、全長約74mの前方後円墳で4世紀にさかのぼると思われる桂川町金毘羅山古墳、これに続いて全長約30m前後の前方後円墳である同町宮ノ上古墳と同町大平古墳がつくられ、さらに全長約44mの前方後円墳である筑穂町ホーケントウ古墳、前方後円墳とされる北古賀1号古墳が5世紀から6世紀前半にかけて継続して築造されます。このように5世紀代は桂川地方と若宮地方に有力豪族の系譜がたどれます。

 一方、遠賀川河口には大型墳で玄室に石障をめぐらせた横穴式石室で、九州中部の熊本県地方の古墳の石室と関係の深い芦屋町大城大塚古墳が築かれます。また、上流域の飯塚市北部に全長約40mの前方後円墳である山の谷14号墳があります。そして、その近くの目尾の遠賀川の川底からは阿蘇溶岩でつくった家型石棺が発見されています。この頃、遠賀川流域には中九州の肥後地方とかかわりの深い古墳が出現していることは注目されます。

 また、飯塚市川津1号墳と頴田町きょう塚古墳は小形の円墳ですが、両古墳とも埋葬施設の蓋に突起が付いた箱式石棺です。川津一号墳は蓋の内側をくりぬき、周囲には竪穴式石室のような配石があり、5世紀前半の築造と推定されます。きょう塚古墳は5世紀中頃の築造でしょう。共に東九州の古墳の影響を受けています。

 5世紀末から6世紀前半になると、遠賀川と穂波川が合流する飯塚市の西部から穂波町にわたる地域に有力な大豪族が現れます。これらの古墳からは朝鮮半島とかかわりの深い資料が発見されています。

 穂波町森原1号墳は全長約28mの帆立貝式古墳で、埋葬施設は初期の横口式石室であり、朝鮮半島とかかわりの深い三環鈴などが発見されています。

 同山の神古墳は全長約80mの前方後円墳で、埋葬施設は初期の横穴式石室と考えられます。衝角付冑(かぶと)と挂甲(よろい)、画文帯神獣鏡をはじめ、朝鮮半島と関係の深い金銅製の馬具類や鋳造鉄斧など豊富な副葬品が発見されました。古墳の規模と副葬品の豪華さから5世紀末から、6世紀初頭の遠賀川流域最大級の古墳といえます。

 これに後続する同小正西古墳は、径30mの大型の円墳で、円筒埴輪や朝鮮半島と係わりの強い馬具・武具など多くの副葬品がありました。

 稲築町かって塚古墳は、小形で初期の頃の横口式石室ですが、朝鮮半島と関連の深い短甲や鉄鐸(馬具の一種)などが発見されています。飯塚市櫨山古墳(横穴)からは朝鮮半島と関連の深い金銅製の帯金具と馬具が発見されています。

 こうした古墳に葬られた人々は、朝鮮半島と独自に交易を行う有力豪族や有力者であったと推定されます。

 また、田川盆地でも、嘉穂地方と同様に朝鮮半島と係わりの深い古墳が見られます。

 田川市猫迫1号墳は5世紀中頃の築造で径30mの大形の円墳です。陶質土器とともに日本でも最古級の馬形埴輪が出土しており、わが国への馬の渡来を明らかにする上で重要な資料となっています。

 継続して築かれた田川市セスドノ古墳は5世紀後半頃の築造で、径37mの大形の円墳です。陶質土器をはじめ短甲(よろい)などが発見されています。

 ともに竪穴系横穴式石室を持つ大形の円墳ですが、側壁や奥壁の石材を床面から天井まで一枚の石で構築し、箱形をした特異な石室構造です。その源流は、韓国の大邱広域市の竪穴系横口石室などに求められると考えられます。このように田川地方は5世紀中頃にさかのぼって、朝鮮半島とのつながりが深い地域であります。

(3)「鎌・穂波屯倉」の設置と急成長した大豪族

6世紀の中頃以降になると、地域の首長層だけではなく、社会的地位がそれほど高くない人まで古墳を造るようになります。直径10m内外の小規模な円墳や横穴が数十基ほど群集してつくられます。日本列島に古墳は15万基以上あるといわれていますが、その中の約99%は6世紀後半の後期古墳なのです。

 この時期には5世紀代に、朝鮮半島からの影響を受けて北部九州に出現した、横穴式石室が普及します。この埋葬施設は外界に通じる出入口をもち、死者の追葬も可能でした。副葬品は大量の土器・武器・甲冑・馬具などから、生活用具としての実用品が目につきます。どうも古墳を死後の生活の場と考えていたようです。4,5世紀に比べて6世紀には、他界観念の上でも大きな変化が認められます。

 遠賀川上流域の嘉穂盆地では、旧穂波郡域に桂川町王塚古墳・天神山古墳を中核に円墳群と横穴群からなる桂川古墳群が形成され、また、旧嘉麻郡域には飯塚市宮脇古墳・寺山古墳・川島装飾古墳などを中心に前方後円墳と円墳群及び横穴群からなる川島古墳群が造られました。

 こうした前方後円墳を中核とした古墳群が造られた歴史的背景として『日本書紀』に見える535(安閑天皇2)年の鎌・穂波屯倉の設置とともに、ヤマトの王権との連帯の下に、急成長した2つの有力豪族の出現が考えられます。

 ヤマト王権は5世紀から6世紀にかけて、屯倉設置の政策を全国的にすすめて、それまでの国造を介しての間接支配体制を切り替えて、直接的な全国支配体制を創り出そうとしていました。その一環として、この嘉穂地方にも鎌・穂波の二の屯倉が置かれました。

 安閑天皇2年をわずかにさかのぼる528(継体天皇22)年に、筑紫国造磐井は新羅と通じて、ヤマト王権の朝鮮半島政策を妨げようとして反乱を起こしました。これはヤマト王権をふるえあがらせた大乱でした。ちなみに、筑紫国造磐井の墓は、北部九州最大の前方後円墳である八女市岩戸山古墳といわれています。

 この乱後、磐井の子、筑紫君葛子は父の罪を恐れて、糟屋の屯倉を献上して死罪をまぬがれたと『日本書紀』は記しています。

 鎌・穂波屯倉が置かれたのはこの事件が終った直後のことです。旧嘉麻・穂波郡域は、元は磐井の支配下に入っていたと思われますが、乱後、突如として屯倉が設置されたことは、この地方がヤマト王権の九州支配において、重要な地域であったためだと考えられます。同時に設置された富国の5屯倉と、先に摂取した糟屋屯倉の配置の背景には、北部九州の沿岸を確保するために、北上する筑紫君の勢力をさえぎろうとするヤマト王権の戦略的な意図がうかがえます。

 桂川地方は遠賀川の最上流域に位置し、冷水峠や米山峠をつうじて筑後地方や肥後地方と結ぶ戦略上の重要拠点だったと考えられます。王塚古墳石室内の石棚や石屋形などの特異な内部構造や豪華な装飾壁画からも、築後・肥後地方の古墳との深い係わりが認められます。

 川島の土地は、豊国と筑紫国の内陸部を東西に横断する陸路と、嘉穂盆地と遠賀川河口の港を結ぶ水陸交通の交差点に当たり、きわめて重要な交通の要衝でした。この地の管理・運営権を掌握していたのが、川島古墳群を築いた集団だったと推定されます。

 一方、田川地方には、6世紀末に田川市夏吉古墳群に巨大な横穴式石室を持つ円墳がみられ、6世紀末から7世紀初頭には、巨石時代を用いた長大な横穴石室をもつ方城町伊方古墳が出現します。田川市夏吉から方城町にかけて、有力者がいたことがあります。

 中流域では、鞍手町新延大塚古墳には巨大な横穴式石室があり、金銅製の馬具などが発見されています。

 また、同町の銀冠塚古墳からは珍しい銀冠が発見されています 。この銀冠は厚さ約1mm、幅約2㎝、長さ28㎝の透彫結紐文の帯状の冠台の真中に、宝珠と花文をいたただき、内部に忍冬唐草文の透彫を有する二等辺三角形の前立をつけたものです。総高15.7㎝の、頭を一周せず、前額だけを飾る形式です。

 この冠に最も近いものは、法隆寺釈迦三尊像脇侍623(推古31)年をはじめ法隆寺関係の諸尊の天冠に求められます。また、宗像郡の宮地嶽神社奥の院古墳出土の冠に見られる透彫による珠文手法が類似しています。

 この冠は中国六朝後期に作られた冠帽が遠く日本にもたらされたものと推定されます。鞍手町付近にも郊外交易を行うような有力豪族がいたことがわかります。

(4)遠賀川流域の縄文人と弥生人 

全国に約600基あるといわれる装飾古墳は、北部九州にもっとも濃密に分布しています。特に、熊本県に約190基、福岡県に約80基があります。

 装飾古墳は5世紀中頃から7世紀代にかけて築造され、家形石棺の内外面に線刻したもの、石室内の石の壁面に色彩で描いたもの、横穴の入り口や内部に彩色や線刻をしたものがあります。

 初めは石棺や石障に幾何学文様を彫刻し彩色しますが、6世紀の前半頃から横穴式石室の壁面に赤・青・緑・黄・白・黒の色彩を用いて、幾何学文様のほか器材・動物・人物を描く壁画系が主流となります。また、砂岩や凝灰岩の発達した地域には線刻を用いた横穴系が発達しました。

 こうした装飾は、死者の魂を鎮めた魔性を除くためとか、または、葬儀を荘厳にするため、あるいは、死者を供養するために施されたと説明されています。

 遠賀川流域一帯には、国指定特別史跡1基、国指定史跡2基、県指定史跡4基を含む19基の装飾古墳が分布しています。少数ですが、内容は全国的に大変特色あるものが見られます。

 桂川町王塚古墳は6世紀半ばの築造で前室・後室に五色の彩色壁画があり、装飾古墳としては高松塚古墳。キトラ古墳とともに全国に3基しかない特別史跡に装飾古墳の一つです。若宮町竹原古墳は6世紀後半の築造で、前室・後室に2色の彩色で翳・人物・馬・船・四神などが描かれ朝鮮半島の高句麗壁画古墳の影響を思わせます。飯塚市川島古墳と若宮町損ヶ熊古墳は6世紀末の築造で。奥壁に川島は2色で人物・円文・三角文が、損ヶ熊は1色で縦・横・斜線が描かれています。

 頴田町城腰横穴、直方市水町横穴、中間市瀬戸横穴、同羅漢山横穴、同土手の内横穴、鞍手町古月横穴、北九州市相坂横穴は線刻を用いた横穴系です。

 石室系の彩色装飾古墳は遠賀川上流域の嘉穂盆地と中流の若宮盆地に分布しますが、横穴系の線刻(人物・鳥・木葉・魚・斜格子文など)を主とする装飾古墳は下流域を中心に分布しており、遠賀川の上流と下流で地域性が明確にみられます。

5 遠賀川流域の横穴墓

 遠賀川流域は九州でも有数の横穴墓地帯です。横穴墓は山の中腹の、主として古第三紀層の砂岩や礫層に横から穴を掘り込んで墓室を作った墓で、古墳時代後期の6世紀中ごろから7世紀前半にかけて多数築造されました。

 遠賀川流域のおおむね全域に分布していますが、古第三紀層が発達していない犬鳴川上流域には認められません。この地域には横穴墓の代わりに旧来の横穴式石室を造り続けました。

 横穴墓は下流域の仲間市周辺、上流域の飯塚市・稲築町・桂川町周辺、英彦山流域の田川市・大任町周辺に特に集中して分布しています。

 この地域の横穴墓には墳丘を持つもの、内部に線刻や彩色による装飾を施したもの、羨道部(入り口)に石組を施したもの、複室(前室と後室)構造をとるものがあり、横穴式石室からの影響が強くうかがえます。

 また、飯塚市菰田の池田横穴墓のように、圭頭大刀、椎頭大刀、壺鐙、金銅製馬具など、横穴式石室古墳の副葬品を越える豪華なものを持つ横穴墓もあり、注目されます。こうした横穴に埋葬された人が当時どのような地位の人であったのかは、まだ、よくわかっていませんが、地位は低くても、交易や生産活動など特殊な才能や技術を持った人々だったかもしれません。

(6)須恵器の生産と箆書須恵器

古墳時代の器に土師器と須恵器があります。土師器は弥生土器の系統を引く焼き物で、弥生土器に比べてほとんど文様がなく、地域的な特色がありません。

 須恵器は青灰色の硬い土器で、その源流は朝鮮半島の陶質土器にあります。ロクロのような回転台を使用しタタキ技法で成形するという製作技法や丘陵の斜面に作った登窯で焼き上げるという焼成技法などは、渡来人によってわが国に伝えられました。

 日本の須恵器の源流は朝鮮半島南部の加耶あるいは西南部にある百済の陶質土器であろうと考えられています。

 遠賀川流域では陶質土器や初期須恵器は田川市猫迫1号墳、同セスノド古墳、田川郡香春町五徳畑田遺跡、嘉穂郡筑穂町木の下遺跡など上流域で発見されていますが、まだ、下流域からは確認されていません。

 須恵器は近畿地方の大阪府南部などや、九州では筑前など甘木・朝倉地方で5世紀末から6世紀には須恵器生産は全国的に広がりました。

 遠賀川流域では下流域の岡垣町野間窯跡、中流域の鞍手町古門窯跡、上流域の飯塚市井手ヶ浦窯跡で6世紀後半から須恵器の生産が始まりました。

 須恵器の生産が全国に拡大すると、6世紀末から7世紀末前半にかけて、特定の地方にしか見られない器形が現れたり、ある地方にだけ固有の技法が生まれたりして地方色が明瞭になります。

 北部九州では朝鮮半島に近いという土地柄から、外来の要素をもつ須恵器がいくつか認められますが、その一つが有蓋三足壺です。

 この土器は釣鐘状の蓋を伴う短頚壺に、長い三脚を付けた珍しい器形です。

7 遠賀川流域の埴輪

 

 

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