もっと知りたい遠賀川

原始・古代編 4 弥生時代の遠賀川

(1)米作りのはじまり

今から2400~2500年ほど前になると、 中国大陸から朝鮮半島を経て、イネやムギ・アワなどの穀物を作る新しい文化が伝わりました。そのため、野や山で鳥や獣を取り、森の木の実を採取し、海辺では魚や貝を取る不安定な生活から、定住して定期的に食料を生産することができるようになり、人々の生活はそれ以前に比べて大変豊かになりました。

 さて、イネはどこからもたらされたのでしょうか。つい最近まで、野生のイネと栽培イネの品種分化が多い中国南西部の 雲南地方やその西に接したアッサム丘陵地帯と、栽培イネが発見される遺跡が多い揚子江中・下流域が起源地と考えられていましたが、現在では、後者の揚子江中・下流域が有力です。その古さは今から約7000~9000年前までさかのぼるといわれています。

 我が国へのイネの伝わった経路は、中国北部からのルート、中国中部からのルート、中国南部からのルートが推定されています。考古学の研究成果によると、上海から南の杭州近くにある河姆渡遺跡などが所在する中国中部の揚子江中・下流域で発達した水田稲作が次第に中国大陸を北上し、約5000年前頃には山東半島まで達しました。その後、対岸の遼東半島あるいは松菊里遺跡などのある朝鮮半島の南西海岸へと伝わったと考えられています。北部九州へはこの地域を経由して伝わったことが発見された石器の共通性から有力です。

 北部九州の初期稲作の遺跡として、唐津市の菜畑遺跡、糸島郡二丈町の曲田遺跡、福岡市の板付遺跡、粕屋町の江辻遺跡があります。

 北部九州へいち早く上陸した水田稲作は遠賀川流域を経て、瀬戸内海沿岸を東へ近畿地方まで至り、また、対馬海流に乗り山陰地方から日本海沿岸を北上し、本州の北端まで達しています。水田稲作の伝播の早さは凄まじく、最初の伝来から、北海道を除いて全国に広がるまで、200年とかからなかったと推定されています。その状況をよく示しているのが遠賀川式土器に代表される稲作文化の西から東への広がりです。 

(2)遠賀川式土器の発見と研究

 この遠賀川式土器は、1931(昭和6)年に遠賀川下流の遠賀川郡水巻町立屋敷遺跡の川底から 、アマチュアの考古学研究所、名和洋一郎氏によって発見されました。壺の肩のところに貝殻やヘラによる羽状文など美しい幾何学文様を描いていました。

  この土器については、九州大学の中山平次郎氏が立屋敷遺跡で発見された文様のある土器に注目し、この有文の弥生土器を北部九州に多い文様のない弥生土器とは別系統と考え、有文の弥生土器が無文の弥生土器より新しいと考えました。

 その後、京都大学の小林行雄氏は、広く近畿地方の土器を調べて、有文の弥生土器が西日本に広く分布していることから、無文の物より古いことを発見し、これらの有文の土器を遠賀川式土器と名付け、弥生土器の中で最古のものとなりました。そのため、弥生文化が伝播する様子を明らかにする上で重要な指標となりました。

 1940(昭和15)年に、東京考古学会の杉原荘介氏は、九州の考古学研究者の協力を得て、日本の稲作文化の起源を明らかにするために、この遺跡の組織的な発掘調査を行い、その研究成果を『遠賀川』と題する報告書として発表しました。これは福岡県における記念すべき弥生時代遺跡の本格的な発掘研究報告書の第1号です。

 その後、遠賀川流域は、考古学研究が進められる中で遺跡の年代決定の根拠となる、弥生土器の編年研究(型を比較して土器の新古を決める研究)を切り開いてできた地域でもあります。

 立屋敷遺跡を調査した杉原荘介氏は、田川市の下伊田遺跡の土器を「下伊田式土器」と命名し、「立屋敷式土器」から「下伊田式土器」への変化を考えました。また、森貞次郎氏は、飯塚市東菰田の土器を「東菰田式土器」として、遠賀川式土器の中で最古のものとし、「下伊田式土器」から「立屋敷土器」への変遷を提唱しました。遠賀川式土器の次の土器は「城ノ越式土器」といいますが、これも遠賀郡遠賀町の城ノ越貝塚の土器が基準になっています。

 このように遠賀川流域の弥生時代遺跡は、弥生文化を研究する上で重要な役割を果たしてきたと言えます。この時代の呼び名は現在、弥生土器が最初に発見された東京都本郷弥生町の地名から「弥生時代」となっていますが、遠賀川式土器が弥生文化伝播の指標になったと言う研究史を重視すれば、まさに、「弥生時代」のかわりに「遠賀川時代」の呼び方を提唱して良いかもしれません。それほど、日本の古代史を研究する上で重要な役割を果たした地域なのです。 

※名和洋一郎⋯1907(明治40)年~1967(昭和42)年

享年60歳 福岡県若松市出身。小倉工業学校を経て、八幡製鉄所、八屋土木事務所、直方土木事務所に勤務する傍ら、遠賀川流域の考古学研究を行い、九州考古学会会員となり、北部九州の考古学研究に活躍されました。1931(昭和6)年遠賀郡水巻町大字伊佐座及び立屋敷から弥生土器を発見し、「遠賀川式土器の発見者」として学界に知られています。遠賀川流域の遺跡をくまなく踏査し、遺跡・遺物について克明に書き込んだ「名和さんの手帖」は、その資料的価値が高く名和洋一郎の名を不滅のものにしています。(3)古遠賀湾の陸地化と稲作文化の始まり

弥生時代になると気候がだんだん寒冷になりました。さらに遠賀川による土砂の堆積作用によって、徐々に「古遠賀湾」に狭められ陸地化が進みました。

 弥生時代の貝塚は、縄文時代に比べて、ずっと河口に近づいて作られています。遠賀郡遠賀町大字老良の老良貝塚・妙雲寺貝塚、水巻町大字二の上二貝塚・宮ノ下貝塚、中間市大字岩瀬の岩瀬貝塚などの位置から推定して、現在の遠賀川の河口から約8kmあたりまでに海岸線は後退しています。つまり縄文時代最大の古遠賀湾の半分以上が陸地になったと考えられます。

 遠賀川流域では、唐津市菜畑遺跡、福岡市板付遺跡で見るような、初期の水田跡はまだ発見されていません。しかし、縄文時代の終わりの頃の土器(黒川式土器)に、モミ跡がスタンプとして残っている土器が嘉穂町才木遺跡で発見されています。

 その後に現れる突帯文土器(山ノ手式・夜臼式土器)と呼ばれる、米作りを始めた頃の土器は、遠賀郡芦屋町、同岡垣町、北九州市、中間市、鞍手郡鞍手町、直方市、鞍手郡小竹町、田川郡赤村、同川崎町、飯塚市、嘉穂郡穂波町、同嘉穂町など遠賀川流域の各地で発見されています。こうした遺跡は遠賀川の沖積作用で川底に水没しており、遠賀川沿いの砂丘の背後の湿地や浅い谷の湿地を水田として初期の米作りが行われていくことが想像されます。

 これに続く、最初の弥生土器(板付Ⅰ式土器)は中間市、直方市、小竹町、飯塚市、嘉穂郡稲築町、同穂波町で発見されていますが、明確な遺跡は飯塚市の東菰田遺跡です。この土器も同様に遠賀川の川底から多く発見されています。

 遠賀川下流の河口に近い、中間市砂山遺跡からは擦切りで穴をあけた石庖丁が、また、芦屋町夏井ヶ浜貝塚からはアワビの貝庖丁が見つかっています。

 また、中間市垣生、同猿喰、同御館山からは朝鮮半島でつくられたと考えられる青銅の剣をまねた有柄式磨製石剣が、同垣生、同猿喰からは有茎式磨製石鏃も同時に発見されています。発見された状況は不明ですが、二つが組み合わされて発見されていますので、稲作を伝えた人の墓に納めた副葬品と考えられます。

 同様な有柄式磨製石剣は、遠賀川上流の飯塚市鶴三緒の遠賀川の川底や、田川郡糸田町内からも発見されています。また、飯塚市川島の遠賀川の川底からは、青銅の剣を忠実に模倣した有桶式磨製石剣が発見されています。

 こうした珍しい形をした擦切り孔の石庖丁や、有柄式磨製石剣、有桶式磨製石剣、有茎式磨製石鏃は、似たものが朝鮮半島の南部に多く存在しますので、米作りが朝鮮半島から遠賀川流域にいち早く伝えられていたことを物語っています。

(4)遠賀川流域の縄文人と弥生人

芦屋町山鹿貝塚から発掘された縄文人は後世の人々と異なった、特徴的な身体の形質を持っていました。全体的にがっちりした、頬骨や顎のえらの張り出しが目立ち、眼球を収納する眼窩も四角くて低く、特に目の間の、眉間から鼻にかけての部分がかなり起伏に富んでいます。つまり全体的に堀の深い顔立ちです。身長は低く、男性でも158~159センチ程度が平均ですが、前腕やすねの部分が比較的長く、胴は短くて足が長いプロポーションでした。

 こうした縄文人が広く日本各地に住み着いていたところへ、弥生時代になると、それまで見られなかった、かなり異質な身体の形質を持った人々が住みつくようになりました。立岩遺跡の甕棺の中から発見された弥生人もそうした人々です。

 今のところ、その痕跡は北部九州や山口県の日本海沿岸部を中心とする地域で確認されています。渡来系弥生人と呼ばれる彼らは、縄文人とは対照的に非常に面長で、眼窩の形も高くて丸く、また鼻根部の陥落や鼻骨の湾曲が弱い扁平性の強い顔面が特徴です。身長も高く、男性の平均はおよそ163センチ、女性で151センチあり、胴長短足傾向が目立ちます。立岩遺跡の34号甕棺から発見された男性人骨は身長が166.5㎝もあったと推定されています。

 こうした縄文じんと弥生人との間に見られる形態的な差の原因については、生活文化の変化に影響された一種の進化現象と考えるか(小進化説)、それとも水稲耕作を初めとする大陸の新文化とともに渡来人もやってきて、彼らの遺伝的な影響が及んだ結果(渡来説)と考えるか議論が続けられてきました。

 近年、それまで不明だった大陸で北部九州・山口地方の弥生人に強く類似する特色を持った古人骨が次々発見され、渡来説は急速に認められるようになってきました。

(5)遠賀川流域にやってきた聖堂と鉄の文化

弥生時代の前期の終わりの頃で、今から約2100年前になって、イネの栽培が関東平野まで及んだ頃、遠賀川流域に大陸から新しい文化の波が押し寄せました。

 銅と錫の合金である青銅でつくられた剣、戈、矛と鏡に代表される文化です。剣は人を刺す武器、戈は柄とほぼ直角に取り付け、首のところを切ったり、馬や戦車に乗っている人を引っ掛けて落とす武器、矛は槍のように人を突き刺す武器です。また、この頃、朝鮮半島の南部に見られる土器(無文土器)も各地で発見されています。

 この青銅器文化の源流は、中国東北文化の遼寧省にあって、約2600年前に琵琶形の銅剣があらわれ、銅斧や銅刀子、粗い文様のある細文鏡が使用されました。このような銅剣文化は朝鮮半島にひろがり、やがて銅剣の身がやや細くなり、刃部の突出もゆるくなって細形銅剣に発展しました。また、細文鏡の文様は精緻なものに変わっていきました。

 また、鉄は中国の歴史書『魏志』東夷伝・弁辰条によると、「国、鉄を産し、韓・濊・倭、皆従ってこれを取る。諸市買うに皆鉄を用う」という記述があり、朝鮮半島南部の弁韓・辰韓では鉄が生産されており、倭人にとっては大切な輸入品でした。当時、鉄は日本列島で生産されておらず、ほぼすべてを朝鮮半島南部からもたらされていました。

 弥生時代から古墳時代の半ば頃までの鉄製品の中に多数、中国や朝鮮半島産の鉄器や鉄素材が含まれており、日本列島ではそれらをもとに鍛冶工房で加工した鉄製品が多数発見されています。

 こうした朝鮮半島の起源をもつ初期の青銅器や鉄製品は、遠賀川流域でも発見されています。

 田川郡添田町庄原遺跡からは朝鮮半島の無文土器時代の終わりの頃のものが発見されています。また、青銅の鉋(かんな)の鋳型(青銅を流し入れて製品をつくる型)や鉄を加工する時にでる鉄滓(くず・かす)や鍛冶炉跡が発見されています。英彦山北麓の山奥ですが、朝鮮半島からの渡来人とかかわりの深い青銅器の生産や鉄を加工した遺跡と考えられます。

 その後、前漢王朝5代皇帝の武帝のとき、紀元前108年に朝鮮半島の西北部、現在のピョンヤン付近に朝鮮半島を支配するために、楽浪郡が設置されると、第三の新たな波として楽浪郡を経由して、前漢の銅鏡とガラスや絹をつくる技術など中国の高い文化が遠賀川流域に及んできます。

 飯塚市立岩遺跡では、これ以前からイネの穂摘み具である石庖丁を大量に生産し、北部九州一円の村々との交易活動で多くの富を蓄えていたため、この新しい文化や技術をいち早く取り入れました。そのため、立岩遺跡の甕棺の中からは前漢鏡10面、多くの鉄製武器、絹で包まれた鉄剣・鉄矛など中国前漢の文物が多数発見されています。また、南方の沖縄地方に生息するゴホウラ貝やイモ貝で作った高価な貝の腕輪も、交易により手に入れていました。

 立岩遺跡では鉄製の武器が多量に発見されていますので、石庖丁の交易活動で得た商業圏を生かして、鉄製品を西から東へ運ぶ交易活動を目指していた可能性もあります。立岩焼ノ正遺跡から発見された鉄の素材は鉄の鍛冶加工が行われていたことを証明しています。

(6)遠賀川下流域の遺跡

元松原遺跡は遠賀郡岡垣町の三里松原の南側の砂丘上にあります。ここからは青銅器の生産を示す銅戈の鋳型をはじめ、瀬戸内海地方の青銅器の元になる銅剣、銅矛、銅戈などの青銅器や鉄矛、鉋などの鉄器が発見されています。また、箱式石棺や大型甕棺も発見されており、ここは響灘や洞海湾を通じて、瀬戸内海地方へ青銅器文化が拡がっていくための中継地点のような役割を果たしていました。

 また北九州市八幡東区の高槻遺跡からは、近くの金毘羅山周辺の石材を使用した、木を伐採するための大型磨製石斧の未完成品が多量に発見されており、福岡市西区の今山遺跡とともに、古くから石斧の生産地であったことが知られています。 ここから発見される前期の壺型土器は、口縁部の上面に隆帯をつくり、肩に貝殻文を施文する美しい土器で高槻式土器と呼ばれています。この土器は遠賀川下流域から周防灘沿岸にかけて分布し、この頃、遠賀川下流域と山口県西部地域は同じ独特の土器文化圏を形成していたことがわかります。そして、遠賀川河口地域は、弥生文化が東へ進む上で重要な役割を果たしました。

(7)遠賀川中流域の遺跡

 遠賀川東岸の低い丘陵上にある北九州市馬場山の原遺跡では、多数の袋状竪穴が見つかり、石鏃、石剣、石戈、石庖丁、石鎌、石斧などの未完成品が発見され、石器生産工房と考えられています。瀬戸内海西部からの影響を受けた土器も発見されています。ここにも独自の石器製作集団が芽生えていました。

 その上流にある直方市感田上原遺跡は、遠賀川東岸の丘陵上にあり、東西二グループに分かれる、穀物を貯蔵するために用いられた袋状の竪穴郡が発見されました。凝灰岩質粘板岩製の石庖丁、石鎌、石剣、石戈、高槻遺跡系の磨製石斧など大量の未完成品が発見されました。遠賀川上流域にある立岩遺跡系統の石庖丁などの石器が見られず、立岩遺跡とは別系統の石器生産遺跡と考えられます。

(8)遠賀川上流の遺跡

鎌田原遺跡は嘉穂町馬見の馬見山北麓に延びた丘陵上にある、中期前半から中期末の墳丘墓(土を盛り上げた墓)です。墳丘には周溝が巡り、長さ31メートル、幅24メートルの隅丸長方形で、高さは1~2メートルの低い墳丘と推定されます。木槨木棺墓1基、木棺基7基、土壙墓1基、甕棺墓11基(大形棺10基、小形棺1基)が発見されました。木槨木棺墓は木棺をさらに木の枠組みでおおった大形の墓で、朝鮮半島の墓とも関係があるといわれています。

 大形の木棺墓と木槨木棺墓は墓の中央付近に築かれ、小形の木棺墓と甕棺墓は周辺部に造られています。木棺墓と甕棺墓は中期前半から造られますが、木棺墓は中期中頃で終了し、甕棺墓は中期末まで継続します。

 木槨木棺墓(中期前半)から中細銅戈1本、2号木棺墓(中期前半~中頃)から細系銅剣の切先1本、3号木棺墓(中期中頃)からヒスイ製獣系勾玉1個、ヒスイ製小形勾玉6個、碧玉製管玉178個、7号木棺墓(中期前半)から磨製石鏃7点、磨製剣切先1本、壺形土器1個、8号木棺墓(中期前半~中頃)から磨製石剣切先1本、8号甕棺墓(中期前半)から中細形銅戈1本、9号甕棺墓(中期前半)から細形銅戈1本が発見されました。

 墓に葬られた中心的人物が大陸的色彩の強い木槨木棺墓や在地性の強い木棺墓を用いていること、周辺の人物が新しい墓制である甕棺墓を採用していること、さらに、女性と推定される3号木棺墓の被葬者が縄文的な獣形勾玉を副葬していることなどに、この地域における初期の有力者の特色がうかがえます。

 スダレ遺跡は穂波町椿にあり、遠賀川西岸の龍王山から東に延びた丘陵上にある弥生時代前期から中期の集落と墳墓群です。遺構は台地の頂部に東西に分布しています。

 弥生時代前期に住居・貯蔵穴が造られ、中期初頭から中期中頃にかけて墓地が営まれました。墳墓は土壙墓17基、木棺墓32基、土壙墓か木棺墓か不明なもの6基、甕棺15基、計70基が発見されました。

 土壙墓・木棺墓が主体を占め、甕棺墓が極めて少ないことが特徴です。甕棺は小形棺で日常容器を転用したものが多く、埋葬専用の大形甕の使用は中期中頃以後のことです。木棺墓のなかにはきわめて大きいものが2基あり、一つは鎌田原遺跡と同様な木槨木棺墓の可能性があります。通常の規模の木棺の中にもその可能性のあるものがあります。供献土器を打ち欠き、破砕する葬送習俗が見られますが、この中には類例のない特殊な子持壺があります。

 1号甕棺からは、右腕にゴホウラ製貝輪4個を着装した熟年初期の男性人骨が発見されました。3号甕棺からは熟年初期の男性人骨が検出され、第2胸椎に磨製石剣が刺さっていました。磨製石剣が実用品であり、戦闘による殺傷に使用されたことを示している貴重な資料です。こうした資料から当時は有力者が出現するとともに、周辺の村との間に、しばしば、戦いがくり返されていたことがうかがえます。

 立岩遺跡は飯塚市立岩・川島にあり、嘉麻川と穂波川の合流点から東方に約500メートルの位置にある丘陵上と周辺の低地に立地します。その範囲は南北約1キロメートル、東西約600メートルに及ぶ、弥生時代前期後半から後期の遠賀川流域で最大規模の遺跡です。

 昭和8(1933)年以降の調査によって、弥生時代中期の甕棺墓地や石庖丁製作跡などが確認され、また、1963・65(昭和38・40)年の調査により弥生時代中期後半の有力者の墓などが発見されました。

 前期の頃には貝殻で文様を描いた遠賀川式土器と、高槻遺跡でつくられた大形の石斧があります。遠賀川下流域や響灘沿岸地域との交流が盛んであったことがうかがわれます。

 しかし、前期末に始まる石庖丁の生産活動は、中期になると飯塚市北西部にある笠置山周辺に石庖丁の製作に適した石材の原産地が確保され、大量生産への生産体制が確立しました。その結果、多くの石庖丁が峠越えで嘉穂盆地から福岡平野・甘木朝倉地方を主体に北部九州一帯へ交易品としてもたらされました。この交易活動により立岩には多くの富と力が蓄積されたと考えられます。

 一方、福岡平野からは、遠賀川流域に以前には見られなかった甕棺を用いた墓、中国前漢の銅鏡、青銅器、鉄器がもたらされ、また、筑紫平野からは南西諸島を原産地とするゴホウラ、イモガイを用いた貝輪がもたらされるなど峠越えの交易路が開かれました。その結果として、立岩堀田甕棺遺跡の豊富な副葬品に示される、王のような有力者が現れたと推定されています。

 丘陵上、丘陵鞍部や丘陵斜面に甕棺墓、竪穴住居、貯蔵穴群が分布し、谷間の低地に水田があったと推定されます。イネのほか、アワ、モモ、クリなど植物も栽培されていたようです。

 焼ノ正遺跡から銅戈の鋳型、下方遺跡から銅剣の鋳型がそれぞれ発見され、青銅器も製作されました。立岩小学校裏遺跡では鉄を加工した跡も発見されています。

 墓地は堀田、夫婦岩、龍王寺など12ヶ所で発見されています。中期半ばから成人用の大形甕棺が使用され、中期後半に絶頂期を迎えます。北部九州の他の地域に少ない石蓋を用いた甕棺が多いことが特徴です。堀田遺跡の中期後半の10号甕棺からは前漢鏡6面、中細型銅矛1本などが発見され、遠賀川上流域の最も有力な人物の墓だと考えられています。

 さらに、前漢鏡や銅矛などから福岡平野にあったとされる「奴国」との強い文化的・経済的関係が認められることから、「奴国」の勢力が遠賀川以東の地域へ進出にあたっての前進基地のような役割も果たしていたのではないかとも考えられます。このような副葬品の豊富さから、中国の歴史書『魏志』東夷伝の倭人の条に、邪馬台国にいたる行程に出てくる「不弥国」という国を、立岩遺跡のある飯塚・嘉穂地方に推定する考え方もあります。

※中山平次郎⋯1871(明治4)年~1956(昭和31)年

享年86歳 旧制第一高等学校をへて、東京大学医学科を卒業し、1906(明治39)年福岡医科大学(九州大学医学部)教授となりました。1914(大正3)年から考古学に関する論文を発表し始め、特に弥生時代の研究では、多くの実証的な業績を残し、九州の考古学研究の基礎をつくりました。

遠賀川流域の考古学研究では、大正初期に高取焼諸窯の調査研究、昭和初期に遠賀川流域の弥生土器の研究を行いました。さらに、1933(昭和8)年に発見された飯塚市立岩運動場遺跡の甕棺と同所焼ノ正の石庖丁製造所跡の調査研究を『福岡県史蹟名勝天然記念物調査報告書』第9輯や雑誌『考古学』に発表し、立岩遺跡が広く学会に知られる端緒を開きました。同氏の立岩遺跡研究に果たした功績はきわめて大きいものがあります。

(9)遠賀川弥生文化のたそがれ

弥生時代中期に、石包丁の独占的な生産とともに、中国前漢の銅鏡10面を所持し繫栄していた立岩遺跡以後、古墳時代までの歴史の展開を物語る資料として後漢鏡があります。

 後漢鏡は古代中国の後漢時代に作られた銅鏡ですが、わが国と後漢との交流の中でもたらされたものです。次に、権威の最高シンボルである中国鏡を手掛かりに遠賀川流域の歴史の展開を探ってみましょう。

 この時期に遠賀川流域では後漢鏡が14面発見されています。遠賀川上流の旧嘉麻郡6面、旧穂波郡1面、旧田川郡5面、中流の鞍手郡2面があります。

 前漢鏡は10面が飯塚市立岩遺跡に集中していますが、後漢鏡は立岩遺跡の周辺部から1~2面と分散して発見されています。これは弥生時代中期の立岩一極集中の政治体制が崩れて、遠賀川上・中流域の各地に新しい有力集団が弥生時代後期を通じて現れたことを示しています。

 なぜ、このような変化が見られるのでしょうか。今のところ、弥生時代に鉄器が普及し、生産工具が右から鉄へと切り替わり、その過程で立岩遺跡の経済基盤を支えた石庖丁の生産が衰退したためだと説明されています。

 現在のところ、立岩遺跡から後漢鏡が1面も発見されていないことが、この仮説を補強しています。しかしながら、この変化は北部九州一帯で見られる現象であり、簡単にはいいきれないところもあります。

 

 

 

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